
23.11月13日発行「慈愛」第133号
==豊田卓球スポーツ少年団
長井市の卓球スポーツ少年団を語るとき、「豊田卓球スポーツ少年団」を語らずにはいられない。
「3年間で全国中学校大会優勝」を目標に、昭和51年に発足した。2年目で山形県優勝し、全国大会出場を果たし
た。3年目で東北大会優勝し、全国大会第5位に入賞した。これは、現在全国で活躍している殆どの選手が、クラブ
チームや、スポーツ少年団(共に広域)に加入しており、豊田中は全国の先駆者的役割を果たしたと思っている。
そういう意味でもO・Bや地域の力が重要不可欠であり、高い目標と継続する強い意思と情熱があれば、全国で活
躍出来ると言うことを証明したものだ。大勢の関係者からの温かい支援。特に遠藤文雄氏へ感謝したい。代表指導
者:八鍬秀晴、指導者:尾形政志、鈴木文雄、鈴木啓一氏は、殆ど休むことなく毎日の朝晩の指導に当たった。
大晦日の午後11時30分集合。体を温める程度の軽い練習後、近所の神社に「必勝祈願」に出かけた。
’練習すれば必ず強くなれる’ と確信し、日々努力であった。
 |

↓下は手作りの講習会資料です
|
==長井市卓球スポーツ少年団誕生
小学校や中学校、豊田スポ少などの、組織的活動以外では、三上氏(高野町在住の医師・故人)や松木氏(森在住
の公務員)が、自宅に卓球台を購入し、自分の子供や地元の子供等と卓球を楽しんでいたが、それを統合しスポ少活
動へと発展した。 昭和47年に高梨運蔵氏(東町・故人)が、旧北高講堂を会場として近所の小学生を集めて指導し
た。生徒の中学進学と同時に他競技への種目変更などから団員が減少し始めた為、長井市統一の卓球スポ少設立を
目指し新たな活動を開始した。組織化への動きが起こったのである。
1・三上、松木の両練習場を閉鎖し 2・指導者を複数制にし 3・練習会場を集約し 4・長井市全域から会員募集
としたのである。 高橋伸雄氏を代表指導者として、青木孝吉氏、鈴木文雄氏らが指導者となり、現西支庁舎体育館
で指導開始し、昭和55年までこの体制で活動した。 翌昭和56年「長井市スポーツ少年団」が組織化された。それは
昭和41年、長井市柔道スポ少が日本体育協会に本登録されて以来15年が経過し、単位団数も14団体に成長した
時である。長井市卓球スポ少は同年、少林寺拳法・豊田サッカースポ少と同時加入が認められた。
昭和57年秋、高橋伸雄氏が事故に遭ったため、卓球協会主管事業と位置付けし、代表指導者を尾形政志氏に変更
し、新たなスタートを切った。現在の勤労センター(市民体育館)で土曜日の午後1時から3時まで。部員は小学3年から6
年までで、最大で男女87名と、非常に指導困難な時代もあった。指導者の都合で尾形政志氏一人での指導もたびた
びあった。後の国体選手青木和弘等が小学3年の時である。
昭和63年3月12日、山形放送の「朝のジアーナル」で、当スポ少の活動状況が紹介され、国体関連での強化策など
について紹介された。
==小学校単位での組織活動
47国体に向けての強化事業として、単なるスポ少だけの活動ではなく、市民全体で活動を支援する様に活動の基盤
を変えた。 昭和63年度から、市内6小学校単位にそれぞれ「スポ少」が新設された。平成5年全国ホープス大会男子
団体優勝の「長井南卓球スポ少」もこの年に設立された。同スポ少は発足当時から小・中一貫指導でスタートした。
指導者は地域住民を中心に,各地域において選任し、過去に選手として活躍した人が中心となったが、父兄も見物し
ながら、指導者をサポートし、会場いっぱい元気な声が響き渡った。
以来、各地区公民館を会場にしての地域の活動を継承し、地域ごとの卓球大会の開催等、」地域ぐるみが卓球を盛
り上げた。また、優秀選手発掘の足がかりとなっている。
*当時の地域毎の代表指導者は
長 井小学校学区 蜂谷 潔 致 芳小学校学区 手塚 繁二
西 根小学校学区 渋谷 謙一 平 野小学校学区 青木 修二
豊 田小学校学区 遠藤 文一 伊佐沢小学校学区 鈴木 武次 (敬称略)
==現在の体制とこれから
現在、伊佐沢スポ少は、他競技との複合組織として活動中であすが、南中学校学区を「長井南卓球スポ少」とし、
北中学校学区を「長井ジュニア卓球スポ少」とし、活動中である。相互が努力研鑽し、県代表として東北大会、全国大会には、
例年出場している。 今後は、更に進むだろう少子化をにらみ、また、週休2日制の有効活用の対象として、
「卓球をひろめ」さらに「卓球のまち長井」を発展させて行くためには 1・学校との連携 2・指導者の確保
3・練習会場の確保が重要である
|